どうしてでしょう……。
満たされている筈なのに何か落ち着かない心持ちがするのは。
確かに幸せなのに……
幸せだと思うのに……。
流 沙
かの男性(ひと)の笑顔が好きでした。
やさしくて、暖かくて。
まるで日溜りの中にいるような、そんな心持にしてくれました。
普段は他の先生方がおっしゃるには、昼行灯のような男性ではありましたが、
大事になると瞬時に纏っている空気が、厳冬の、更に寒い朝を思わせるような気に一変する様を目にした時、
尊敬の念と、この男性のようになりたいという憧憬が湧いて参りました。
生には執着のない男性でしたが、己の誠は大事にされていました。
私は、かの男性に私の誠を尽くそうと決心しました。
あの男性は鬼に例えられていました。
確かに厳しい男性でした。
同時に優しい男性でもありました。
そしてとっても不器用な男性でした。
あの男性はまた、とても照れ屋であるが故に、己の優しさが他人に知られるのを
とても嫌がっておりました。
その不器用な優しさを慕っていたのが、かの男性でした。
そしていつしか私も‥‥‥。
かの男性と私との間には秘密がありました。
それがかの男性と私とのささやかな絆でした。
でも、その秘密はいつからかあの男性に気付かれてしまいました。
それからは三人の共有の秘密となりました。
私とあの男性との関係はそれから一変したのでしょう。
どういう切欠だったかは忘れてしまいましたが、
今となっては、それは成るべくしてなったのだと思わざるを得ません。
あの男性から私だけに向けられる微笑は、
私の小さな胸を幸せで満たしてくれました。
あの男性がそっと沿わせる手は、
私に力を与えてくれました。
隠そうとしつつ零れ出た優しさは、
私の瞳を潤わせ、時には雫となって袂を濡らしました。
そうしてだんだんと私は、自分が女であることを自覚させられていったのかもしれません。
あんなに嫌だと思っていたのに‥‥。
あんなに否定したかったのに‥‥‥。
かの男性があれほど私を女子に戻したがっていたのを知りながら
ずっとそれを拒んできた私なのに。
どうして――。
どうして‥‥
あの男性の力強い腕の中が心地よいと思ってしまうのでしょう。
その腕の中にずっといたいと思ってしまうのでしょう。
前を歩くあの男性の背中が頼もしくて、ずっとこのままついていきたいと思いました。
些細な言い争いの後、くるりと向けられた背中が哀しくて、
でもあの男性と同じくらい意地っ張りな私には詫びる言葉がでなくて、
幾夜も幾夜も枕を濡らしたこともありました。
仲直りは、やっばりあの男性の背中でした。
不思議なことに仲直りの時機になると、あんなに拒んでいると思われた背中が、
私が飛び込んでくるのを待っているように思えてくるのです。
あんなに出なかった「ごめんなさい」 の言葉が自然にでてくるのです。
ただあの男性の傍にいるだけで幸せなのです。
ああ、女子でよかった、
と、そんな風に思っている自分に驚きました。
でも……
幸せなはずの私の心の中で警鐘が響くのです……。
「女子」に戻ってしまいそうな私自身へ、なのか、
かの男性への誠を未だ心の奥底で持っている事への罪悪感なのか、
それとも別な何か、なのか……。
こういう事には疎いかの男性も薄々気付いているかもしれません。
またいつもの言葉を言われるのでしょう。
でも「此処」を離れることは出来ません。
私はかの男性の盾になろうと誓ったように、
あの男性の危機に間に合う処にいたいと思うから。
それが唯一の私の生きた証になるのだから ―― 。
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