「おいっ。見てみろよ、ほら。」
隣の隊士に脇をつつかれて、もう一人の隊士が足を止める。
合図された方に目を向けると信じられないような光景が待っていた。
「……あれ、……副長だよな。」
「多分…。」
「まさか影武者じゃないよな?」
「…多分…。」
「どうしちゃったんだろうな?」
「さぁ……。」
二人の隊士の目に映ったもの……。
それは、自室でぼーっと一点を見つめていたかと思うと、
突然頭を振って何やらぶつぶつ独り言らしき言葉を吐いている彼等の上役の姿である。
そして、その行為はもう幾度となく繰り返されているのだ。
普段、「鬼のような」と恐れられている新選組副長の尋常ではない様子 ―― 。
見てはいけないものを見てしまったかのように隊士はお互いに顔を見合わせ、
こくりと頷くとそっとその場を立ち去った。
当 惑
― 序 ―
「おい、最近の副長変だと思わないか?」
「あん?」
「だから、最近の副長おかしいと思わないか?…って訊いてるんだよ。」
「そういえば…。」
「なっ。お前もそう思うだろう?」
非番のため、取り立ててする事も無く暇を持て余していると、同じ組の者が神妙な面持ちで話しかけてきた。
一体何の話かと身構えてみれば、漠然とした問いかけにどう答えたものか言葉に窮する。
適当な相槌らしき言葉で繋いだものの、それを待っていたかのように相手が身を乗り出してきたので、
思わず後退ってしまった。
すると、後方から声がかかった。
「お前ら、何の話してんだよ。」
「何の、ってなぁ?」
突然話に割り込んできた隊士に、どう話したものかという風に別の二人の隊士は顔を見合わせた。
「副長がどうの…って言っていたようだけど?」
「いやぁ、もしかしたら気のせいかもしれないが、最近の副長ちょっとおかしいような気がして…」
「やっぱりな。」
「やっぱり、ってお前、何か知ってるのか?」
何か知っているような口振りに、他の隊士が食い付いてくる。
「いや…。俺が見たわけじゃないんだが。 ―― 実は、…」
他の二人に詰め寄られ少し怯みながら、後から加わってきた男が話し出した。
その男の話によると、隊士の誰かが副長室で異様な行動をしている副長を見たという。
しかも、目撃したのは一人や二人ではないらしい。
「…いったいどうしたっていうんだろうな、副長?」
「さあな…俺達が窺い知れない何かがあるんだろうよ。」
「……なぁ、…もしかして『恋煩い』とかいうやつじゃないのか?」
「「恋煩い〜〜っ !?」」
二人の声が大きく重なる。
「ば、馬鹿。声が大きい!…他の奴らに聞かれるだろうが。」
「しかしお前、『恋煩い』なんてどこがどうなったら、そんな話になるんだ?」
意外な話の成行きに半ば呆れ顔で問う。
「いやぁ…、まぁ、何だ。俺は経験が無いんでわからないが、昔、似たような症状の奴がいたことを思い出してな。
そいつが近所の娘に惚れてたみたいで…。こう、ぼーっとしたり、かと思うと突然訳もなく叫び出したり、
そして溜息ばっかりついていたり……。」
「それと、副長とどう関係があるんだ?」
「だから、似てると思わないか?様子がよ。…まぁ、そっくり同じってわけじゃないが、
副長だって男なんだからそういう事があってもおかしくはないだろう?」
「そりゃおかしくはないだろうが…しかしお前、あまりに突飛な話だな、それは。」
「それに、副長ぐらい男前だと女には困らねぇだろうに。『恋煩い』なんて無縁に見えるがな…」
その言葉に、ちっ、ちっと人差し指を左右に動かし、『恋煩い』説を支持する男が物知り顔で言う。
「男と女ほどわからないものはないんだぜ。ゲテモノ好きって場合もある。
…そもそも顔の良し悪しで決まっちまうなら、大概の男があぶれちまうってことになるだろう?
―― それに、他人には言えない事情とやらに悩んでいるのかも知れねえし……。」
「「………。」」
「副長だってどこかの娘に岡惚れすることがあっても不思議はないさ。」
そう力説されるとそういう気もしないではない。
確かに『恋煩い』の症状によく似ているような気もする。
「そうかぁ。副長でも恋に悩むことがあるんだな。…何だか俺、勇気がでてきたよ。」
「そうだな。俺も何か自信ついたよ。男は顔じゃない!ってな。」
そうだろう、そうだろうというように頷く男。
「俺達もまだまだ望みはあるってことだな。」
…どうやら話は違う方向へと逸れていくようだ…。
こうしてどんどん推測の尾ひれがくっついて、水面下で噂が広まっていくのだ…。
知らぬのは噂の当人と、それに近しい者だけ。
まさか、鬼と思われている当人の耳に入れようなんて勇気がある者はいまい。
そして当人の耳に入りそうな可能性のある者に、真相を聞いてみようという気を起こす者も今のところいないようだ……。
今日も土方は自室でぼんやりとしていた。
いや、一日中ぼうっとしている訳ではない。
文机の上に幾つか書きかけの書状がのっているが、あとは綺麗に片付いているところを見ると、
仕事はきちんとしているようだ。
「はぁーっ。…何だってこの俺がこんなに悩まなきゃならねぇんだ。」
土方は頭を抱えた。
「確かに言い出したのはこの俺だ。だが……しかし………はぁーっ。」
頭を抱えていた手を開放し、まっすぐ障子を見据えると、土方はまた深く溜息をついた。
自分のこの姿を誰かに見られ、それが噂の種になっていることを土方は知らない。
新選組全体を把握し指揮する男が、組内のもう小さからぬ噂に気付かないこと、それこそが
この男が今は平常通りではないことを物語っている。
土方はまた一つ大きく頭を振ると、文机の傍らに避けて置いた書状を広げ、筆を持った。
そして、さらさらと筆を動かした。
漸く筆を置いたところで、小さな足音が聞こえてきた。
土方はびくんと肩を震わせた。しかしすぐに、いつもの新選組副長の顔に戻る。
「失礼します。副長。……ただいま、戻りました。」
障子の外から聞こえてきたのは、むさくるしい男所帯の中には似つかわしくない程の、涼やかな少し高い声。
「神谷か。…入れ。」
「失礼します。」
すっと障子が開き、その声の持ち主が清々しい姿を現した。
破 へ
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